「本当に、これで、大丈夫なんだろうな?」
ご依頼社の取締役から眼光するどく問われれば、デザイナーの目は泳ぐものです。
真摯に考えれば、造形表現というものは本来曖昧さがあり、危うさを感じないデザイナーはいないでしょう。
そうした曖昧さに耐えられない怖さ(強い痛み)を感じるだけに、僕はより深く考えずにはいられません。
その結果、企業に内在する魅力的なマインドや、ポテンシャルという力「エンジン」に、
クラッチのようにつながり、ビジネスを加速させる「コミュニケーション・アイデア」としての
ロゴマーク、VI(Visual Identity Design System)を、デザインできないか、と真剣に考えるようになりました。
それが、僕の目指すデザインです。
そして、それが、僕が、提案したいデザインの正体です。
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このサイト「Axle(アクスル)」を運営している
グラフィックデザイナーの青木克磨(aoki katsuma)です。フリーランスのデザイナーです。
僕のデザインの力は、腑落ちする、消化の良さです。
それは、やがて、血肉化して、あなたの「創造性が自然発火」してくれることを「目的の目的」にしています。
そして、真の理解(目的の目的、根源の根源、中心の中心)が、生み出すものの大きさは、計り知れません。
その発火点として、わからない痛み「Creative Spirits」があります。
その正体は、決めたつもりも、信じたつもりも、検討したつもりもないし、意識したこともないのに、
それに基づいて感じたり、考えたり、行動してしまっているもの、のようです。
「働く」ということの本質的な意味は、英語の「work」のコア・イメージを知ると理解できます。
そのものの持っている力、本来の力を発揮する、あるいは発揮させるという根源的な意味です。
「work」の意味を拡張させると、あるべき「働の輝き」になると思います。
「愛」とは、対象がもつ、働きを、
もっとも美しく生かす働きかけのことである。(作者不明)
僕の目指すデザインであり、ご依頼社に提案しているデザインの正体の言語化です。
そして、Axle(アクスル)の「ハート・シンボル」(ロゴマーク)の意味です。
「heart」には「心臓(エンジン)」「人生」「生活」、使い方によっては「元気・勇気・気力」「奥義」などの意味がありますが、
僕は、「すべての根源、不動の中心」「心髄」だと思っています。
あわせて屋号の「Axle」は、車軸のことですが、象徴的な意味としては「可能性が回転する軸」であり、
その軸の中心として「ハートという不動の中心」があるという「モノゴトの正体」を表現しています。
表現すべき会社の心髄(heart)の発見と、
その伝え方(視覚的表現)の発見、
この(独創的な)2つのコミュニケーション・アイデアの発見で、
ご依頼社のビジネスを、輝かせ、加速させることが、僕の仕事(デザインワーク)だと思っています。
商品・サービスとは、「より豊かな生活 (充足)」と「より良い人生 (成長)」を、
実感するために存在するようになった、といわれ、今日的なブランドのブランド・ミッションとなっています。
このような消費志向を分かりやすく理解できるものに、
末期ガン患者のためのホスピス(終末医療)から生まれた概念で「QOL」があります。
苦痛を伴う治療などを止め、残された「人生を豊かに生きる」ことを実現させるために生まれた概念です。
医師は、病気の治療・完治が仕事ですから、かつては、助からない患者さんに死ぬまで治療を続けていました。
ここに、人を輝かせない「矛盾」と「錯覚」があります。当然ですが医師に悪意はありません。
しかし医師は治療者として真摯であるけど、患者さんにとっては、我慢の限界を超えた痛みと
死への恐怖の中で死んでいく結果になります。または、病気は治ったが患者は死んだ、というふうにいわれます。
そこにある仕事は、医師中心の「手段の目的化」です。
医師の技術の問題ではなく、
患者さんの生活や人生を考えると問題があるということです。
患者さん中心の患者さんの目的(残された生の充実、人生のエンディング)のための
手段としての医療を考えるということです。
こうした切実さから生まれたものが「QOL」です。
何が本当に素敵なのか、何が本当大切なのかを問う「Quality of Life」、「QOL」はその略です。
生活の質、人生の質という意味です。今では、ビジネスにおいても使用されるマーケティング用語になっています。
ホスピス(終末医療)、つまり「死(絶望)」から生まれたものだとは、知られていないかもしれません。
そして、あらゆるビジネスにおいて、こうした問題が、意識されずに存在しているのではないかといわれています。
この「Quality of Life」、
生活の質、人生の質を、提供する目的としての「Quality of Work」が必要になると思います。
「QOL」の表裏一体としての「QOW」です。
僕の企業デザイン(VI)のロゴマーク・デザインのテーマは、
「Quality of Life」、「Quality of Work」を表現する、「働の美」のデザインです。
それは、対象(ご依頼社とそのご依頼者のお客様)がもつ、働きを、もっとも美しく生かす働きかけです。
その根源には、「何が、人の生きる力、輝きになるのか?」、という問いが隠れています。
僕にとってデザイン(の仕事)は、「謎」であり、ブラックボックスになっていました。
いまだ、解かれていない「謎」ですから、あなたもあなた以外の方たちもデザインの本質はわからないはずです。
理屈抜きに、企業の本質をつかみ、
人がハッとするような魅力的な造形、ロゴマークをつくることは今でもデザインの王道です。
こうした直観的なセンスだけで勝負するやり方、アーティスティックなデザインは、
確かに「これだ!」というものができた場合、すばらしいといえます。
しかし、一歩間違うと独りよがりで、迷走しやすく、それが、ご依頼社とのトラブルの元凶になることも少なくありません。
2015年に起きた東京2020・オリンピックエンブレム・デザインにおける騒動で、
さまざまな問題(惑乱)が浮き彫りになりました。
「東京2020とは、何かという目的(根源的な意義)の表現」がなかったことが混乱を生み出した原因ではないでしょうか。
デザインの目的、つまり、デザインの「Quality of Work」は、
表現すべき対象の中にある、人を輝かせるものを探求・発見し、それ(の意味、意義、価値)を気づかせるために、
目と心を開かせる「美しい形を刺激とした深い共感・支持のきっかけ(発火起点)」をつくることです。
亀倉雄策(1915-1997)による、1964年の東京オリンピックのシンボルは、何がすごかったのでしょうか?
それは、東京オリンピックを表現(目的)するのにとどまらず、東京オリンピック開催の根源的意義(目的の目的)までを表現したことにあります。
軍国主義によって第二次世界大戦で敗戦(1945年)し、日本中が焼土と化した一面の焼け野原からの奇跡の復活を遂げた「平和日本」が、
再び国際社会の中心にエントリーしよとする意欲(決心)を、シンボル(象徴的意味)として打ち出し、
その鮮明なイメージングによって、国内、国外を問わず、人々の目を開き、心を拓かせ、深い共感と深い支持をえたといえます。
平和の祭典オリピックシンボル(世界の5大陸の友愛と親交を象徴)と同じ造形要素である円と円の調和のある配置で平和と同期させつつ喚起させ、
軍国主義のイメージが色濃く残る国旗を意識させない、その極限までのシンプルさの大円の太陽・日の丸のデザインは、
理屈を超えて平和日本(の誕生・再生)を世界に新たに実感させたからこそ、
人々をインスパイアする力がありました。インスパイアとは、行動や考えを変化させるほどの強い影響をいい、
その新たなイメージ(平和日本という解釈)は、過去を断ち切り、日本のイメージを根源から再構築したといえます。
このシンボルは、指名コンペで行われ、河野鷹思、永井一正、粟津潔、田中一光、杉浦康平、稲垣行一郎といった
当時一線で活躍するデザイナーでしたが、そのデザイン案のモチーフは、富士山、扇子、折り紙、桜、楕円とT 、Tの聖火台などで
小さな脈絡(目的)の理解である東京オリンピックを表現していましたが、
亀倉雄策のデザインのような大きな脈絡(目的の目的)の理解で東京オリンピックの根源的意義を表現していませんでした。
落選案のデザインは、東京オリンピックの「真の目的」は何かという、根源的理解まで届いていません。
亀倉雄策のデザインは、何が本当に素敵なのか、何が本当大切であるのか、というデザイン解の「Quality of Work」を実現できたといえます。
彼は、自らのデザイン・プロセスを「離陸着陸」といいます。
「グラフィック・デザイナーというのは飛行機みたいなものだ。
飛行場から飛び立っていろんな好きなところへ飛んでいくけど、しかし、かならず飛行場に着陸しなければならない。」
「ところが、才能がないやつっていうのは飛んでいきっぱなしで帰ってこられないというのがある」といいます。
おそらく、ここでの説明で使っている「目的」、「目的の目的」というような表現内容の認識構造は存在しておらず、
自由奔放なアーティスティックな手法で、つまり、天才的な直観で仕事をものにしているのだと思います。
東京オリンピックの同時代である、1965年に出版されたデザインの本「創造のデザイン:H・Bデザイン研究会」には、
「カンと技法で体当たりするのがデザインの本命なのだから・・・・」と序文に書かれています。
いまも、「カン」と「技法」で「体当たり」は変わっていません。
デザイン教育の分野でも多くの著書がある
イタリアのブルーノ・ムナリー(1907−1998)はこういいます。
「多くのデザイナーは問題が依頼主によって十分に定義づけられていると思っている。しかし、大部分が不十分のままである。」
だからこそ、依頼された仕事内容、つまり、その目的から、
本当は何が求められているか、依頼社が気づかれていない目的の目的をも、探ってみる必要があります。
スティーブ・ジョブズの仕事も、目的の目的、つまり、根源的意義の把握から生まれたクリエイティブ・ワークです。
いま、真剣に求められているデザインは、目的の目的、つまり、根源的意義の把握から生まれる「創造性の自然発火」であり、
本質的問題解決としての組織や、会社のクリエイティブ化のはじまりです。
デザインにも、人を輝かせない矛盾と錯覚が、やはり存在していると思います。
商品、サービスが、かなえる「Quality of Life」、
それを実現するための会社の「Quality of Work」を、つくること、見つけることは、そんなに難しいものではありません。
誰のための、どんな仕事(目的の目的)なのか?、に答えるだけです。
ただ、私たちには、あまり考えなくても、
おのずと出てくる「ふつうの答え」が、靄(もや)や、壁となり、それを邪魔してくれます。
有名なイソップ物語の「3人のレンガ積み職人」の中に、「いろいろな仕事の答え」があります。
旅人が、レンガを積んでいる3人のレンガ職人に次々と出会い、声をかける話ですが、少しアレンジをしています。
旅人はレンガ職人に尋ねます、「何をしているのですか?」
1人目「レンガ積みをしているのさ。」
2人目「大きな壁を作っているんだよ。」
3人目「歴史に残る偉大な大聖堂をつくっているんだ。」といいます。
彼らは続けてこういいます。
1人目「なんでこんなことをしなければならないのか、ついてない。」
2人目「この仕事でオレは家族を養ってるんだ。大変だなんて言ったらバチが当たるよ。」
3人目「ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うんだ!、素晴らしいだろう!。」
この話の面白いところは、
やっている仕事(レンガを積むこと)はまったく同じなのに、
その3人の「仕事」に対する考え方や意欲がまったく違うことです。
そこには、「Labor(労苦)」、「Work(仕事)」、「Quality of Work(働の美)」があります。
私たちの仕事は、目的の設定(発見)を間違えなければ、素晴らしい魅力を秘めています。
でも、そこに焦点が合っていません。
労苦(Labor)を焦点にしているレンガ職人には自分しか見えていません。
仕事(Work)を焦点にしているレンガ職人はまわりの人が見ています。
QOL(Quality of Work)を焦点にしているレンガ職人(の焦点)は、もっと人々や世界が見えていていると思います。
そこに、大きな脈絡の理解と小さな脈略の理解があり、大きな脈絡の理解は、社会に根を落とす確かな存在感のある魅力を感じさせます。
人間は、機械ではありません、心で観て、心で聴いて、心で味わい、心で嗅いで、心で触れています。
仕事の中に内在する心に響く魅力的な内実を見出し、それを示す美的刺激の形をつくりだし、理解のきっかけを作るのが
お客さまと通じあい魅力(共感と支持)を感じてもらえるデザインです。
そのデザインの力とあわせて、人々を、もっとも美しく生かす働きかけができるビジネスであれば、
あなたが望んでいなくても、必然的に、いま多くの企業が目指しているブランドへのエントリーさえも可能になります。
あなたが経営する会社を輝かせる基本的な原理です。
デザインに限りませんが、表現とは、「内容の発見」と「伝え方の発見」といわれます。
デザインというと、伝え方の「かたち(見た目の素敵さ)」ばかりが目につきますが、「内容の発見」があってこそ成立(共感と支持)するものです。
私たちの仕事は、目的の設定(発見)を間違えなければ、素晴らしい魅力を秘めています。
でも、そこに焦点が合っていません。
独創的な仕事が少ないのは、われわれに想像力または構想力が欠けているからではない
それはむしろ思考力が習慣反射および順応性に縛られて構想力の方向づけを誤ったり無視したりするために
仕事の活動範囲がわずかな伝統パターンに限られてしまうからである。
「創造性の開発:ファンジェ(1963)」からの引用です。
私たちは、素晴らしい可能性・魅力を秘めていながら、発揮できない原因を、この文章は指摘しています。
なぜなら、私たちの世界にある人を輝かせない矛盾と錯覚を、私たちが認識できないからです。
そうした世界の今のあり方を問いただしているのが、
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が書いた2016年に出版された「サピエンス全史」です。
世界48カ国で、200万部以上売り世界から注目されました。
その内容は、ほとんどの歴史書が国家がどれだけ権力を得たかについてだけ書かれていて「幸福」という問題を軽視しており、
権力は必ずしも、より良い世界を創り、人々を幸せにするものではなく、
現代人は石器時代より何千倍も力を持っているにも関わらず
2〜3万年前と比べて、人々は、それほど「幸福」には見えない、と指摘しています。
さらに、氏は、力とは必ずしもより良い世界を創るものでも、人々をより幸せにするものではないということを、
認識することができなくなり「ただ力を追い求めることになってしまう」のです、といいます。
人々の幸せに、生きる力に、モノゴト(の目的)が、どう繋がるかという「Quality of Life」が、問われているともいえます。
私たちの仕事は、AI(人工知能)とロボットによって
2030年〜2040年には、50%〜80%がなくなるだろうという予測が伝えられています。
機械におきかえられる仕事なら、人間は絶対に機械に敵いません。
その象徴的な存在として銀行があります。
その業務の多くはフィンテックなどのテクノロジーで代替えでき、銀行はその役割を終えその多くは消滅するといわれています。
担保や保証がないと融資ができず、企業、経済の活性化、成長を阻害しており、
リスクテイクという金融の本質を忘れ、自己完結的な利益(還流しない力)を追う姿勢はその存在意義を失いつつあります。
本当は、何が、大切、なのか?、本当は、何が、素敵、なんでしょう?
テレビ寺子屋という番組の「夢を実現する子を育てるために」の回ですが、その講師の平光雄氏が親御さんたちの前で、
「どんなお子さんにしたいですか?」と問われます。「明るい子」、「やさしい子」、「賢い子」などの答えが返ってきます。
講師の平光雄氏は、こういいます、子育ての目的を改めて考えてみると、
1人で生き抜いていくのが究極の目的であり、1つだけ選ぶなら「強い子」または「逞しい子」ではないでしょうか?、と・・・・・。
夏になると、水難事故がニュースで流れます、溺れる子どもを助けようとした父親の死です。
我が命を投げうってでも、助けたいわが子なのに、どうなって欲しいのかという考え方(目的)が核心に対して寸止めです。
教育論についてのネット記事がありました。
そこに、はてなブックマークがついており、そこに書かれたのはこれです。
ほとんどの人は「考える」ことなどしていない。
「思っている」だけだよ。何かが頭に思いつくことが「考えている」ことだと思っている。
そこで問題になるのは、「おのずから(自動的=従属性)」と「みずから(探索的=独自性)」という発想の違いです。
「おのずから」には暗黙の了解のようなものが潜んでいます。
「おのずから」は、自分が手を下さないでもそのことが自動的に運ぶばあいに用いられ、
「おのずから」は、意識や努力を必要としないことをさす、
「みずから」は、自分で手を下して何ごとかをするばあいに使い、「みずから」には、意識や努力がともなう。
これは、『「無」の思想:森三樹三郎(1969)』からの引用です。
自然の「自」に対する説明です。
自とは他者の力を借りないで、それ自身の内在する働きによること、「自(おの)ずから」も「自(みずか)ら」も
どちらも自の第一義を共通の地盤としている、と書かれています。
それらは、私たちの中で、渾然一体となっているようで、区別がついていません。どちらも人として自然なことだからです。
だから、考えているようで、考えていないことに、気づけないのかもしれません。
自然に、つまり、自覚できないうちに、「おのずから(自動的=従属性)」と「みずから(探索的=独自性)」をつくってしまうようです。
時代の変化などを見据えておよそ10年ごとに改訂される「学習指導要領」は、2020年に新たになります。
文部科学省では、学校教育が目指しているもの、それは、変化の激しい社会に必要な「生きる力」を育むこと、といっています。
その新学習指導要領の内容を紐解いている本があります、
その「深い学び:田村学著(2019)」では、それを「探索モード」と要約されています。
「AI(人工知能)とロボット」の登場は、19世紀の「画家とカメラの発明」に似ていると思います。
カメラの登場で、画家たちの見た通りに「リアルに描くことの価値」が奪われてしまいました。
そこを起点に、今までのアートが崩壊し、印象派、シュールリアリズム、ダダイズム、キュービズムなど・・・・・・・・・・、
新たな美の探索が堰を切ったように始まりました。現実と乖離しているといわれながら、
いまやアート思考といわれ、ビジネスとアートの関係づけが探求され新たな可能性が起動しはじめています。
私たちも、機械におきかえられる仕事なら、人間は絶対に機械に敵いません。
かつての画家たちと同じように、人でなくては、できないこと(仕事)を、探求せざるをえません。
それは、創造的なものにならざるをえないといいます。私たちの仕事は、きっと素晴らしい魅力を秘めています。
今までのリミッターが外れて、本来の力が発揮される、その一歩がはじまるのではないかと思います。
僕はまったく気づいていませんでしたが、
若い日に読んでいた心理学の知識がデザインに働いていることを、ごく最近になって気づきました。
それまでは、「カン」と「技法」で「体当たり」ではない、
デザイン(表現)の構造的な理解の探求が、僕のデザインのベースにあるのだと思い込んでいました。
その心理学の知識は、一般的に売られている本から得たもので専門的なものではありません。
それは、人を動かす、問題のある目に見えない根源(本人が気づけない言動を産み出す考え方)を
客観的に認識・理解できるようにして、その考えを、新たにする気持ち(心の力)を生み出し、症状を改善させていくものです。
端的にいいかえれば、気づきをうながし、あるべき健やかさ・生きる力をもたらしてくれるしくみです。
心理学がもつこのしくみは、デザインをはじめてとしてあらゆる優れた表現がもっている構造と同じです。
僕は、こういうことに自然に心が向いていくタイプで、いつの間にか自分が産み出すアイデアの起点が、
いま述べたような「心理学的なアプローチ」になっていました。
ある行動についての学習が、その後の異なる学習に対しても
影響を及ぼすことを学習転移といいますが、そうしたことにつながったように思えます。
「目には見えないけれども、目に見えるものを動かしているもの」という彫刻家の籔内佐斗司氏の言葉があります。
それらは、「エネルギーや、いのち、知恵、こころ」であり、氏の彫刻(表現)の主要なテーマといいます。
星の王子様は「大切なものは目に見えない」といいますが、
むしろ、「自分という目に見えるものを動かしている、目に見えないもの」は、矛盾と錯覚を生み出すとても厄介なもので、
人は見えるものより、見えないものに支配(従属)されています。
それは、さまざまな行動や発想のリミッターとなって、私たちの本来の創造性を奪っていることの方が多いと思います。
私たちは、もっと素晴らしいものを、創れるはずだと思うのです。
このページのトップタイトルの『わからない痛み、「Creative Sprits」・・・・。』は、こうしたリミッターのことを指し、
それを発見し、気づくことが、「Creative Sprits」であり、デザイナーの一つの役割だとも思っています。
そもそも、モノゴトの本質(目的の目的)を見誤ることが、より良い結果や成果に結実しない原因だからです。
根源の根源、目的の目的、中心の中心に、フォーカスするのが僕のデザインの基調になっています。
心理学の本は20代でよく読んでいました。
自分に対して「どしても納得できない・・・。」、なぜ、僕は、僕を、思うように動かせないのか?、この自分の弱々しさはなんだろう・・・・?
そこには、どんな根源(考え方から生まれる気分、気持ち、心の力)が潜んでいるのか?、そういう思いに駆られていました。
自分の中に意識できない、そして、お話しできない「矛盾と錯覚」が潜んでいることがわかりましたが、
そして、それは、自分だけではない、一見、健康な人々のなかにある「矛盾と錯覚」をも知ることになりました。
それは現代の人々の「心の飢え」ともいえ、デザインは、こうした認知を司る心理学的なものに、かなり深く関係しています。
もう一つ、心理学に興味をもつ原因がありました。
すでに故人ですが、僕の父(1928-1999)です。父は、仕事の仲間から「朕(ちん)」と呼ばれることもある人でした。
その仲間たちが家に寄れば、開口一番、「天皇いるか?」という調子です。
よく強弁してしまう人で、人に聞かれてもいないのに「いかに自分がすごいか」を、話すこともあって、
子どもの頃からずっと不思議に思っていました。そして、なにしろクセの強い人でした。
仕事は自営の鳶職で、ガテン系です。仕事は実直でその精度には定評がありましたが、突出した特別な存在でもないのです・・・・。
最近注目されたアドラー心理学「嫌われる勇気:岸見一雄(2013)」でも、自慢する人は、実は、劣等感を感じていて、
優れているかのように見せかける、「偽りの優越感」だと言います。本人はおそらくその正体(根源)に気づかず生きていたのでしょう。
父とは真逆の性格だったこともあり、事あるごとに、遠慮なしでよくぶつかり合っていました。
僕は、1956年生まれですから。今とは違うずっと昔のことですが、父は僕が中学を卒業したら、自分の仕事を手伝わせようと思っていたようです。
ところが、時代が大きく変わって、生徒のほぼ全員が高校進学する状況になってしまい、これには父も母も驚きあわてたようです。
あげくの果てに、地元のデザイン専門学校(姉妹校の名古屋校への転校もしています)にいかせることにもなり、かなりの無理をしてくれました。
年上のいとこが僕のことを「貧乏人のおぼっちゃまくん」といっていたのを知ったのはずっと後のことでした。
そうした無理をしてくれた父に深く感謝しています。
父の母方の祖父は資産家でした。しかし、断絶しており、なんの援助もなかったようですが、
そうでなかったら、もっと可能性のある人生が拓けたかもしれません。そうしたことを一度も父の口から聞いたことはありませんが・・・・・・。
「矛盾」と「錯覚」は、私たちに、「本当の輝き」を、もたらそうとしていません。
さまざまなレベルで、意識できない前提思考や、前意識が、私たちを現実から乖離させ、空働化させているように思うのです。
感じていることを明確に意識できないのに行動を左右する目に見えない力が働いています。
1956年に、静岡県静岡市、清水区に生まれた、僕は、還暦をこえています。
「銃・病原菌・鉄」の著者で、有名なジャレド・ダイアモンド博士(進化生物学者)は、定年である65歳は、能力の頂点だ、といいます。
経験と知恵の集積(宝庫)に、素晴らしいものがある、と。もちろん、僕も、そう思うのですが、あなたはどうですか?
あらゆるものは、目的(エンジン)によって価値を発揮します。
その目的に気づかなければ、その価値を十分に発揮することはありえません。
かつての僕は、デザイン(の目的)が分からなくて、身動きがとれず、その壁の前で止まってしまいました。
30代になっても、何が何だか分からない、分からないところが分からないというフリーズ状態で、アシスタントデザイナーのままでした。
高校卒業後、地元の静岡市の2年制のデザイン専門学校に通っていましたが、1年たって廃校となり、
姉妹校の名古屋校へ転校になります。そこには、岡本滋夫氏、田邊雅一氏が、講師でおり、
この先生たちは、独自の表現スタイルをもち、目も眩むような素敵なポスターを次々とデザインしていました。
僕は、学院賞や、卒業時に優秀賞などももらったため、すっかりその気になってしまい、
あんなふうにデザインをやりたい、できたら、目指そうと、その希求するものに気持ちがたかまりました。
その後、名古屋で老舗のデザイン会社に入社しましたが、気持ちがはやって翌年には東京へ。
数ヶ月前に買ったデザイン誌で紹介されていた、注目の若手デザイナー五十嵐威暢(igarashi takenobu)氏の事務所に入ることでき、
モダンデザインの基本(技法)をしっかり学びとることができました。
氏は、その後、デザイナーとして世界的名声をえて後、現在、彫刻家として活動されています。
そのデザインの独自性は、アクソノメトリック図法という設計などに使われる立体描画法でアルファベットを表現したものです。
平面に描かれた立体アルファベットですが、さらに現実の立体作品にも展開され、唯一無二の造形世界を確立しています。
そこから、彫刻家へと展開されていかれます。自分が望む現実世界をも、自分でデザイン(現実化)しています。
ロゴマークのデザインでは、明治乳業、サントリー、三井銀行、ノーリツ、王子製紙、カルピス、APITAなどが知られています。
僕は、ノーリツや、APITAのVIプロジェクトに関わりました。
次に、出会うのが、A氏です。
富士通の企業広告で日本経済新聞・見開き2ページなどの仕事がくるデザイナーでした。
いまのこの瞬間、もっとも輝きがあるものを感覚的に掴みとる融通無碍のノンスタイルで、アートの人でした。
同時に、もっとも理解しずらく、もっとも力がある人だと思っていただけに、
僕は、デザイナーとしてやっていく力がないのかもしれないと、ずい分前から感じていましたが、
それはさらに強くなり、何をしていいのかわからなく、先がまったく見えてきませんでした。
こうした「グラフィック・アート」といえる独自世界で仕事をする
手練れのデザイナーとの、その煌めきとの出会いは、幸運であるのに、目がくらみ、矛盾や錯覚の原因にもなりました。
「カンと、技法と、体当たり」でデザインされており、学びとりきれないのです。
決して、「カンと、技法と、体当たり」を否定しているわけではありません。
しかし、「技法」と「体当たり」は見ていればわかりますが、「カン」がわからないわけです。
しかし、その後、訳あって独立し、フリーランスになってから、仕事をご依頼いただけたデザイン会社のT社長がいるんですが、
この方が、何でもかんでも、すべてに筋を通そうとする人で、言葉で説明可能なデザインをしているのです。
いいかえれば、その言葉(狙い)があるからこそ、よりデザインが輝いて見えるデザインでした。
デザインのご依頼社を深く納得させる力がありました。
そして、そのデザインのクオリティも、いままで出会った先達のデザイナーと変わりません。
激しい言葉を使う、とびきり厳しい人でもあるのですが、いまでは深く感謝しています。出会えなかったらデザイナーを辞めていたと思います。
そうして依頼される仕事をしているうちに、気がついてみると、考え方が筋道が通った誰にでも理解できるクリアーなデザインになっていました。
この「誰にでも理解できるクリアーなデザイン」は、僕の武器になりました。
しかし、いまから思うと考え方が惑乱(矛盾と錯覚)している本質的な原因は、
仕事に対する真摯な想い、熱意というものに、自分が、目覚めていなかったことです。
ご依頼社のある仕事を、自分の価値を認めてもらうための作品にしたいという下心がつねにあって、僕の目を濁らせていたからです。
作品という言葉は、デザイン専門学校という教育の場から使われ、デザイナーになっても仕事を作品と普通に呼びます。
デザインとは何かという明確な定義や説明もありませんから、仕事なのに自分の作品をつくっているかのような感覚になりやすいのです。
仕事を作品と呼ぶことは、もちろん悪いことではありませんが、ピント外れな野心を抱くことに結びつきやすいものです、
デザイナーにとって作品という言葉の響きは、とても魅惑的なものです。そうした努力で世に出て行く豪腕なデザイナーもいるからです。
僕が出会った煌めくようなデザイナーたちは、みんなこのタイプで、僕が勝手に目がくらんでいたいただけでした。
僕自身のこととして振り返ると、仕事としての目的を明確にするデザインは、
自己完結的な「矛盾」と「錯覚」を排して、ものごとをクリアーに見ること、考えることが可能になり、
優れたものをつくる真摯な原動力だと考えるようになりました。
デザインワークとは、何か?、その本質(目的)を、具体的に図化すると以下のようになります。
デザインに限りませんが、表現とは、「内容の発見(デザインの目的)」と「伝え方の発見(デザインの手段)」といわれます。
デザインというと、伝え方の「かたち(見た目の素敵さ)」ばかりが、目につきますが、「内容の発見」があってこそ、デザインは成立するものです。
デザインの目的(内容の発見)とは、
例えば、化粧品、コスメティックでは、女性を美しくする道具(手段)ですが、それは美しくなること(目的)のために存在します。
そして、その美しさは、みずからの人生を自信をもって生きていく力(目的の目的)として通じていく意義の発見です。
多くの仕事、ビジネスは、ここまでのつながりを発見することができません。
これらの構図は、マズローの自己実現理論の欲求五段階説の構造と同じです。
それは「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものです。
生理的欲求>安全の欲求>社会的欲求/所属と愛の欲求>承認(尊重)の欲求>自己実現の欲求です。
デザインの手段(伝え方の発見)とは、
発見した「目的の目的」を可視化(概念→造形)する、つまり、それは視覚的要約をつくるということです。
「一(要約)をもって、十(連想)を伝えるしくみ」です。
例えば、オリンピックマーク、五輪は、「五つの輪の連結」です。
それがオリンピックマークの視覚的要約「相互の結合、連帯」です。
その5つの輪の連想は、五大陸(ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニア)であり、
その5色は、青・黄・黒・緑・赤とされ、その連想は明文化されていませんが、5つの自然現象を示すとか、
スポーツの5大鉄則を意味しているといわれているようです。
さらに亀倉雄策の1964年の東京オリンピックのシンボルは、
平和の祭典オリピックシンボル(世界の5大陸の友愛と親交を象徴)と同じ造形要素である円と円の調和のある配置で
平和と同期させつつ喚起させ、軍国主義のイメージが色濃く残る国旗を意識させない、
その極限までのシンプルさの大円の太陽・日の丸のデザインは、
理屈を超えて平和日本(の誕生・再生)を世界に新たに実感させたからこそ、
つまり「目的の目的の発見」と「その伝え方の発見」によって、大きな成功をおさめました。
いいかえると、視覚的な要約様相を発見した、伝え方のアイデアを見つけた、デザインの手段としての素晴らしい答えをデザインしたわけです。
要約は、連想と、ワンセット(圧縮と解凍の関係)ですから、背後にある文脈とも結びついて必然的にイメージが広がります。
しかし、的確な要約(焦点)でないと、より鮮明なイメージの連想に展開しません。
古代ギリシャでは、休戦をしてまでオリンピックに参加したことを起源として、平和の祭典(目的)といわれるようです。
世界終末時計は、2020年の現在では「100秒前」となっていることからも、
平和の祭典の開催には意義はあると思いますが、さまざまな問題や矛盾が指摘されているがゆえに、
新たな認識、意義(目的の目的)が必要になると思います。東京2020でも、少しでもそうした視点があれば良かったかもしれません。
僕は、こうした構造に気づくまで、多くの時間がかかりました。
僕自身は、子どもの頃から、ぼんやりとした性格で、飲み込みが悪く、カンや要領も悪い、だから学校の成績も振るいませんでした。
しかし、一旦、飲み込めたら、つまり、腑落ちして、しっかり消化できたら、人並み以上に上手くできることを経験してきました。
こうした自分の性向というのは自分で自覚できないのですが、
自分が勝手にとらわれていたデザインの矛盾と錯覚から自由になれたとき、
T社長のやり方から、自分の特性を生かすことができるデザインがあると分かったとき、
デザインでも、理解しやすい以上の「モノゴトが腑に落ちるような根拠(目的の目的)」を探すようになっていきました。
わかる(目的と手段の構造的理解)ということは、応用展開ができ、
結果、デザインにおいて「わかりやすく鮮明に伝える」ということと、腑落ちする理解は「創造性の自然発火」にもつながります。
そこに、デザインの根源、クリエティブの心髄(目的の創造性)、仕事の中心の中心(働の美)があるのではないか・・・・・。
そこにシフトし続けた結果、
デザインの仕事で、自分のデザイン案を主張するにしても根拠(目的の目的)の発見があれば、
その場を支配するような声の大きい人にも負けないようになりました。
僕のデザインはそうして、なんとか生き延びてきました。
今は、名古屋から、東京への19年を経て、静岡にて落ちついて活動しています。
私たちの世界には、人を輝かせるものより、
人から輝きを奪うようなモノやコトが、(根源的に)多く存在しています。
そして、それらは、私たちの目には映りません。
矛盾や錯覚を、引き起こしているのは探求されないままになっている「モノやコトの正体・根源(目的の目的)」です。
今、求められているのは、それらの発見と創造的解決のデザイン(イノベーション)であり、
そして、それらが「富の源泉となる世界」がはじまっています。
私たちは、自己世界の探求者(=創造者)です。
ことの大小の大きさに関係なく自分を生かす世界(生活・人生)を探求(=創造)する働きをあたえられています。
そうしたより多くの人々に、ほんの少しでも、その輝き(美)をひきだせる、自然発火してしまう仕事をすることが、僕のデザインの目的の目的です。